■ 追悼 若林敬子さんを送る
     高 橋 明 善

 9月13日若林敬子さんが研究調査のための出張先北京で急逝されました。今も第一線の研究者として、研究成果を次々と発表されており、70歳は若すぎました。
 私は、若林さんより10歳年長ですが、若いころから晩年に到るまで、比較的身近にいて若林さんを知っている者です。年令的に逆縁ですが追悼の文章をしたためることをお許し願いたいと思います。

 同門の 妹弟子が 逝きにけり
 送らるべき身 送るはつらし

 昭和40年代初頭、私たちの研究グループが農村調査に出かけた時、目をきらきら光らせる向学心に燃えた二人の若い女性がいたことを記憶しております。飯島伸子さんと若林さんです。飯島さんは後に日本の公害研究の母親ともいわれた人であり、若林さんは中国人口問題研究の第一人者として成長しました。二人とも私から見れば若くてなくなりました。
福武直先生の死(1989年)後、その指導の下で調査研究に従事した者が作っている福武会という現在まで続く集まりがあります。両人ともこの会に参加する同門の仲間でした。その中では、若林さんの師である松原治郎、日本の保健社会学の創始者ともいっていい園田恭一の両氏も逝きました。最近では4月に桜の花見会を兼ねて集まりました。6月には4月になくなったこのグループに近い先輩北川隆吉氏の墓参に一緒に行ったばかりです。若林さんに会ったのはこれが最後です。8月には中野卓先生死去の件で電話の声を聞いています。酷薄な運命が自分の身に降りかかるとは夢にも思わなかったでしょうに。

向学の 輝く目もつ 若き日の
 記憶を残し 北京に逝けり

若き日、学生時代の若林さんを直接指導したのは、福武先生の弟子である東京女子大学時代の蓮見音彦氏(後に東京大学文学部教授、東京学芸大学長)、東大教育学部大学院時代の蓮見氏の兄弟子である松原治郎氏(東京大学教育学部教授)です。若林さんは、東京女子大学で、両氏の師であり東大定年後に再就職されていた林恵海先生にも教えられ、 氏の人口問題研究や、中国農村研究に目を開かれています。
若林さんは、若き日、松原氏、蓮見氏を介して所謂福武グループの農村調査にも多く参加し、当然のことながら、福武先生にも接近しました。晩年には福武氏の身辺にあって、同先生の執筆論文の資料整理をも行い、福武氏を支え、福武氏に可愛いがられました。林・福武両先生は、中国農村研究、人口問題研究の先覚者でもあり、若林さんはその系譜の中で育った出藍の誉れでもあります。
若林さんと筆者との関係は晩年になるほど身近になりました。大学院生時代、「私は将来どうなるのかしら」と問われたことがありますが、その猛烈な食欲を見て、まずやせることが大事だと冗談半分にいったことがありますが、その食欲の旺盛さにはびっくりしたものです。後に、私が健康を心配すると、何処にも悪いところがないといい返されることが幾度かありました。しかし、最近は少し体型がスマートになっていました。無理してやせているのではないかとかえって心配していましたが、最終的には心臓の発作が命取りになりました。
 それでも、私は、気さくな兄貴分として、故布施鉄治氏ともよく行った新宿の山手線を真ん前に見る安酒場に誘ったこともあるし、若林さんの新宿の新居に福武先生とともに訪問したこともあります。若林さんには収集癖があり、調査地、旅行先で買い物をするのが好きでした。わたしは、調査や学会、国際学会で旅行を共にする事も多くありましたが、自分では買えないので、若林さんにつきあい、おだてては彼女が買い物をするのを見るのが楽しみでした。福武先生と若林邸を訪れたのは、中国にこり始めた頃です。それまで集めていた、各地の特に沖縄の記念品が片隅に追いやられ、家中を中国がところ狭しと飾っていたものでした。東京農工大学で雲南農業大学との姉妹校提携記念行事が開かれた時、若林収集の雲南文物展が一室を占めて開かれていたのにはびっくりしたものです。この収集癖は福武先生譲りのものでもあったとも思います。先生はいろいろなものを集められたが、その中に雨宮敬子氏の彫刻がありました。現芸術院会員の雨宮氏が無名のころから先生は応援され、その作品を買い上げておられました。福武賞の副賞も雨宮氏の小作品で、若林さんも受賞しています。彼女の願いは福武先生と同じく大作を買うことでした。雨宮さんとは同じ敬子の名前だと言って親しみ、交際を深めていたようですが、比較的最近、よい作品を譲ってもらったとうれしそうに話していました。
私は若林さんとは当初それほど深い付き合いはありませんでした。しかし、彼女は親切でした。電話をしてきて、いろいろな情報を伝えてくれるし、資料探索を頼むと調べてくれます。沖縄、環境、中国人口など、こちらから頼みもしないのに関連資料のコピーを送ってくれます。学会や友人知人の様子がどうだとか、何かことがあると情報通の若林さんが教えてくれるので便利でした。かなり頻繁に電話を交換したものです。彼女はじわじわと心の中に入ってくる人のように思います。その内に彼女は中国人口問題研究で第一級の研究者となり、妹弟子というより尊敬すべき学者に成長してゆきました。後に彼女は私の教職ポストを継承しますが、遠慮はないとしても、私は彼女に一目も二目 もおくようになってきました。

 そのポスト 我を継げども その仕事
 天空高く 輝きてあり

 彼女は1979年年最初に改革開放後の中国を訪問し、中国人口問題の現実に触れます。
82年福武団長ともに社会学訪中団の一員として、中国を訪問しました。私も同行しています。丁度一人っ子政策か始まる時期でした。中国の専門家と議論する機会もありましたが、若林さんが、上海で実験的に行われている地域を訪ね、情報収集に大変に熱心であったことを記憶しています。この時福武先生の旧調査地、蘇州を訪問しました。当時は人っ子一人いない寒山寺境内で、福武先生、若林さんととった写真が今に残っています。若林さんのことで今回世話になった柿崎京一氏も一緒の旅行でした。
 若き日、鶴見和子さんと鶴見さんが身につけている大島紬の和服に夢中になって連れ歩き、キャッシュカードを落としました。電話の問い合わせに番号を教え、現金を全部引き出されました。そんな恥ずかしい話はしない方がよいと説教して、私は黙っていたのに、彼女はあちこちで話していました。だから許しを得たものとして、 彼女の一面を知るために披露しておくことにします。
国際学会も一緒に参加する事が多くありました。何処に行っても、彼女は人口問題関連機関を訪れ資料収集を行っていました。ブラジル、ノルウエー、ルーマニア、韓国、タイ、中国(毎年中国開催の農工大日中同窓会)などです。私はブカレストの日本大使館でヴィップが来るというので訪問を断られたことがありました。ところがそのヴィップたるや厚生省役人の若林さんだったということが判りました。厚生省に勤めていたことは、役所の紹介状を持つことによって彼女の外国での人口問題研究に役立ったと思います。
 彼女は好奇心の塊でした。国際会議後も会議が終わると、一人であちこち旅行するのです。 シベリア鉄道にのってヨーロッパまで一人旅をするという夢を実現したと楽しそうに語ったこともありました。その冒険心と度胸にも驚いたものです。
1997年私の後任として東京農工大学に赴任しました。幾人かの応募候補の中で業績抜群であり、文句なしの採用だったそうです。厚生労働省は自らの機関が育てた人材を民間に出したくなく、国立大学ならと認めてくれたともいっていました。早速ジャイカが若林講座予算をつくり、発展途上国留学生を送り込んできました。数年続きました。
 東京農工大学赴任後、旧一般教育の系譜を引く共通科目教育、学部教育の担当教官を辞任し、大学院農学研究科国際環境農学専攻の専任教員となりました。一匹オオカミ的な存在が許された国立研究所と異なり、多くの苦労があったと思います。私は衝立にならなければと思いましたが、定年の身、結局彼女が自分で自分の世界を作るだろうと、うさばらしの聞き相手程度のことしかできませんでした。彼女は人付き合いは上手ではなかったようです。しかし、知る人ぞ知る、元学長の梶井功氏(農政学)のように彼女の実績を理解しバックアップする人も多くいたと思います。
 彼女の研究の四つの柱は「戦後学区・学校統合の社会学的研究」、「東京湾の環境-埋立開発・入浜権に関する研究」、「農村社会、地域開発と人口問題に関する研究」「中国人口問題の研究」です。これらのテーマに関して、彼女は若き日に発見した研究課題に一時的に打ち込むだけではなく、20年30年と生涯継続して息の長い研究を続けた後、成果を世に問いました。日本の過疎地、僻地、離島の村々の調査、沖縄研究などにも成果をあげています。何れも、若き日に趣いた調査地へのまむしのような食いつきの産物です。    
 中国の人口問題研究の第一人者としての評価を高めた膨大な業績も「タイミングがよかった」ためと本人は謙虚にいいますが、彼女の問題発見能力と、飽くなき探求が生み出したものであります。
 若林さんは千葉房総の僻地平群(へぐり)の出身です。この地は飛鳥以前の大和の歴史とつながる旧い歴史を持ちます。この僻地が彼女がアイデンテイをもつ故郷であり、彼女の研究の原点における問題意識を育んでいます。彼女は少数民族や僻地を訪ねて、中国や世界を歩き回っています。中国では30の省全部を旅行したといっていましたが、僻地や少数民族の視点から人口と社会の問題に目配りするためでもあったと自ら語っていました。日本の農村地域社会の研究でも「中国人強制連行、花岡事件の村」、「入会をめぐる小繋事件の村」「沖縄集団自決の村」の研究など、研究対象村の選択を見るだけでもその目配り視点の鋭さを見る事が出来ます。
私が代表となった科学研究費の仕事に、若林さんにも何度か協力してもらいました。厚生省の所属では文部省科学研究費はとりにくかったのでしょうか。東京農工大学に移った後、沖縄研究を共にした時、他人が代表の研究費に依存するのではなくではなく、研究者として、自己責任で研究費をとり、自立することを助言しました。その後、文部省や、学術振興会の海外学術調査研究費を確保し、個人としての研究から研究組織の責任者として中国研究者との交流を深めたり、自分の教室の学生たちの養成をはかる教育者として役割を果たし方向に向かって大きく羽ばたくことになりました。
福武先生は、日中社会学会を作り、日中の架け橋になる若手が育つことを期待されました。若林さんは、その先陣を切った研究者でした。中国関係著著書編著だけでも11冊、学術論文136本、その他数え切れない、調査報告、雑誌記事、評論その著作目録にみることができます。全体としては著書12冊、編著6冊、研究室調査報告書21.学術論文239本、その他調査報告、雑誌論文、新聞など書評93本などがあります。
若林さんはその研究活動、中国研究者との交流、後継者の養成を通して、立派に日中の架け橋となり、師の期待に答えました。さらに中国にフアン馮文猛氏らの弟子を残しただけではなく、勤務先東京農工大にもにえ聶梅松さんという後継者を残し、日中研究交流の足場を作りました。大学者費孝通氏は福武先生追悼の文に「君は突然私より先に去るも、後継者が居るのを羨む」と述べました。費氏は文革により失なわれた20年を悔やんでいたのです。

子はなくも 命と心は 絶えるなく
 弟子たち後に つなぎてゆくらむ

 9月24日、若林さんの急死を悼み北京で盛大な葬儀が行われました、不幸中の幸いか死の間際まで若林さんからドクターを取得した、馮文猛氏と、聶梅松さんがそばにいました。彼らが献身な努力をし、費用負担を含め二人の責任で葬儀が行われました。しかし、参加者には中国大使、日本外務省、中国人口学会会長、中国社会学会会長ら学会、諸研究機関の代表的な顔ぶれが見られますし、それらの人々の弔辞、花輪も大変に多数寄せられています。だから実質的には中国の人口研究者、社会学者による壮大なお見送り、弔いの儀式だったといえます。馮、聶両氏に厚く感謝したいと思います。
 中国には日本以上に若林さんの理解者がいました。日本人から見れば客死した外国人へのこのような葬式は破格のことだったと思います。日本では行ないえないような名誉ある勲章としての葬式であったと思います。この間、日中の間の連絡をとっていた高橋にとって、中国の人々の情の厚さには改めて驚くことが多かったことを記しておきたいと思います。

日中の 架け橋となり かくし客死せり 友外人(ともとつびと)の 情けにうたる

 日中を つなぐ架け橋 李香蘭
 追いかけるごと 敬子も消えぬ
(李は9月7日死す)
 
日本からは東京農工大学学長らの諸部署から弔電弔文が寄せられました。そして、日中社会学会(首藤)、日本社会学会(鳥越、蓮見、細谷、矢沢)、村落社会研究学会(柿崎、高橋、徳野)、環境社会学会などの現会長、前・元会長8人の提案と賛同を得て連名で哀悼の言葉、花輪を捧げました。丁度、日本社会学会前会長矢沢修次郎氏が在北京で、同氏に葬儀に出席、弔辞を読んで頂けたことは幸いでした。
若林さんの日本での葬式は10月2日家族葬として行われたことをお伝えしておきます。
昨年、私が世話人だった農工大学農学部退職教師の会「けやき会」が、今年も10月18日に開かれました。彼女の出席の返事は誰よりも早かったといいます。楽しみにしていたのでしょう。しかし、若林さんの姿を見ることは出来ませんでした。

秋風と 共に去りたる 妹を
 キンモクセイが 香りて送る

2014年10月20日 合掌

[補] 10月31日~11月2日、日本村落研究学会大会が、岩手県の津波災害激甚地宮古市で開かれました。若林さんは、早い内に参加申し込みをしていました。姿を見ることなく徳野会長が総会で哀悼の意をささげました。