青浦フィールドノート・16
−現代史(10)
富田 和広 (県立広島女子大学)
今回からは、補足調査結果です。
(以下、『X郷志』の編者への聞き取り)
X郷志編纂
郷志は1984年から資料収集を始めた。
Q:なぜ郷志には橋についてたくさん書いてあるのか。
A:以前は道路がなかったり、悪かった。
1)工業化進展後、陸上交通のための橋が必要になっている。
2)川が多く、橋を作らなければ不便。
3)橋の数は工業や農業発展の一つの目安になる。
図正
図は一つの土地の範囲を表す。解放前、1つの郷には6〜7の図があった。1つの図は今の村の2つか3つ分だった。図の下には奸があった。その下はない。
一つの図には一人の図正がいた。字が読める人、文化のある人がなった。選挙などはなく、政府が一方的に任命する。土地改革までいた。1年に2、3回働けば暮らせる。
この辺りの図正
既に全員死亡。
図正の仕事
・土地売買でもめごとがないようにする。
・土地の基準(上中下の区別)を決める。
・図正が地主の代わりに租税(米)を払わないとき催促に行くこともある。強い者の見方になることが多い。
解放前の経済
米行・展米厰
米行・展米厰は個人所有。地主ではなく商人が所有していた。工商地主には所有しているものもいた。その商人は鎮の近くに住んでいた。上海などに住んでいるものはいなかった。米行、展米厰は一つの鎮にいくつかあった。
米の流通
(X郷政府幹部・X村幹部への聞き取り)
米行は完全に地元資本だった。上海との合弁はなかった。
農民は余った米は米行に売りにいく。余らなくてもいくらか換金するものもいた。米行は年利50〜80%でお金を貸してくれた。
米行は「米販子」(米を売り買いする業者)に米を売る。金持ちの米行の場合は水路を使って、そうでない場合は陸路を人が担いでいく。
X郷の場合は米行が直接上海に売ることはなかった。(但し大きい米行の場合は可)
X郷には船を持っている農民はいたが、海上運輸業者はいなかった。青浦、上海にはいた。
X郷と上海の間には5、6の米の集積場があった。上海までは5、6時間だった。X郷の次は虹橋だった。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
↓
→○−→○−→○−→○−→○−→○上海
X郷 虹橋 ↑ ↑ ↑ ↑
日常品の購入
油菜は解放前からあったが、解放後増えた。食用にも、明りにも使った。家では絞れないので、B鎮の「搾油厰」へ持って行って加工してもらった。油の5%の加工賃をとられた。炊事には藁を使う。それ以外は使わない。解放前は豆油(大豆)が多かった。
醤油、塩は現金で買う。砂糖は使わない。肉、魚、石鹸を男が買いに行く。
金は男が管理している。しかし実際には現金で所有していることは少ない。(春節の時など)大事な買物がある度に換金していた。なぜなら、米の値段は変動するので必要な分しか換金しない。また、見知った店ではつけがきいた。(筆者注:つけがたまると換金して支払った。?)
民国期の教育
(以下、『X郷志』の編者への聞き取り)
B、L、Z、Xの各村に小学校があった。一つの自然村から一人ぐらいの人が学校に行った。
Bには国民小学校があった。抗日戦争後、LF中心学校に改名。国民小学校は6年で、解放直前は生徒は500人ぐらいで、一番多かった。10歳ぐらいから入学する人もいた。学費は一人一年三〜四斗の米を払った。
解放前の共同性
解放前の橋普請
橋の建設:重要なところは政府も援助して作る
橋の修理:誰か金持ちに金を出してもらって、石工に頼んで修理してもらう。(解放前は風水の関係で、廟は必ず橋の近くにある。)
Q:橋の修理のスポンサーはどうやって探すのか?
A:大きい橋(交通の重要なところ)や、小さい橋でも重要なところでは費用がかさむので、村と村の場合には両方から出す。保長か甲長が「願簿」を回してお金を集める。知らせがあるとみんな米や金を持って保長か甲長など担当者の所に払いに行く。額(米や金)は決まっていないが、全員払わなければならない。修理が終わると、誰がいくら払ったかを書いた赤い紙を人がよく通るところに張り出す。
Q:お金を払う範囲は?
A:範囲は行政村の範囲とは決まっていない。費用の概算をして、幾らか借るかによってお金を払う範囲を決める。農作業橋−利用する農家だけで出し合う。大きい橋−保の単位で出す。橋のある保(あるいは甲)だけが負担する。宗族で出す村もある。橋を利用しない不在地主はお金を出さない。在地の場合はたくさん出す。お金を出すのは仏教の善の概念で、いいことである。貧しい人は少な目に出せるようにする。
Q:余ったお金はどうするのか。
A:どうなったか分からない。甲長、保長がねこばばしていることもある。
Q:橋は誰のものか。
A:公のもの。
Q:修理は誰がするか。
A:修理には必ず人を雇う。他の郷から石工を呼んだりする。
解放前の道
解放前の道は細いし、地主でさえ我がままは言えない。ただ修理することは殆どない。
C(郷政府老)幹部が5歳の時は青浦上海間には道がなかった。1936年に建設された。幅3mぐらいで、4tトラックがすれ違うのがたいへんだった。土地が個人所有だったので、大きい地主の土地は迂回して作らねばならなかった。そのために道が曲がりくねっている。
解放前の水路
解放前は基本的には水利工事はなかった(解放後やり出した。'52〜'53水利建設をした)。修理の時は橋と同じようにする。
民国28年に大水があった。
大水が出ても堤防工事には行かない。仕方がないと思っている。橋が流されそうになっても補強しない。どうせ持ちこたえられないから放っておく。予防策もとらない。解放後も防災に対する組織はない。
解放前の災害
虫害
1939年、虫の害で1畝150斤しかとれなかった。地租は来年払いになった。
水争い
田植の後、雨がたくさん降ると、水田に水がたまり過ぎる。そこで、排水すると下の田に水が流れて、その田の者と争いになる。兄弟でも争うことがある。結果、叩き合いの喧嘩になる。喧嘩は戸対戸で、村同士は聞いたことがない。喧嘩で怪我をしたら裁判になる。そうなることが多かった。
雨請い等
水不足の前兆があると6月頃、道士を呼んで雨ごいをする。費用には高い安いがあるが5石ぐらい。一戸一戸で均等に支払う。虫害の時もする(これは7月)。
(つづく)