青浦フィールドノート・18
大衆芸能(1)
富田 和広 (県立広島女子大学)
今回から、大衆芸能についての調査結果を掲載します。中国語では「群衆文芸」といいます。その内容や形式は、家庭での昔話、「茶館」での「曲芸」(かたりもの、うたいもの等)、お祭りでの様々な出し物など多種多様で、地方色豊かなものです。茶館は、本来的には喫茶店なのですが、実際には、雀荘であり、ライブハウスであり、総合演芸場であり、そして恐らく社交場でもあったと思われます。調査地では、ほとんどの茶館は、十字路や橋のたもとに、雑貨店とともにあり、鎮には必ず必要なものだと考えられます。そして農村においては、家庭外での日常的な娯楽は、すべてここに集中していたと思われます。そこで演じられる芸能は、安価で誰でも気軽に楽しめるものばかりでした。この芸能は、そこで暮らす人々に大きな影響を与えていたに違いありません。
また、「廟会」や「出会」も人々の大きな楽しみの一つでした。廟会は、上海語で「ミャオウエイ」と言いますが、全く同じ発音で「廟界」というものがあります。廟のテリトリーを示すもので、調査地の人々は、自分はどこの廟界か分かっていました。氏神(産土神)と氏子の関係と同じでしょう。出会は、廟から像を担ぎ出し、廟界の中を何泊かしながら回っていきます。その行列は、他の廟界を断りになしに通ることはできません。
茶館、廟、廟会、廟界、そして芸能。その地域をすっぽりと包むものが、ここから見えてくるような気がします。
なおここでは、芸能以外にも廟に関する記述を掲載しておきます。
鎮と茶館
(郷老幹部からの聞き取り)
この辺りの鎮は、B、X、LZ(X鎮の南)、L家角(雑貨店と茶館があった。)。
S鎮はBより大きかった。廟会はあるが遠いから行かなかった。
(老幹部の妻からの聞き取り)
解放前、結婚前(数えで16歳)にS鎮にパーマをあてにいって親に怒られた。(東が聞き取り)
(郷老幹部からの聞き取り)
鎮には用がない限り行かなかった。金持ちは2、3日に1回か1週間に1回行く。
解放前、LZはXより大きくBより小さい鎮だった。店が4つか5つあった。雑貨店、精米所、米屋、茶館、魚屋など。1960年代からX鎮が大きくなった。その後、LZは計画でX鎮に移した。
茶館
茶館はBに6軒、Xに1軒、LZに2軒、L家角に1軒あった。
F家窟とS家台
(以前茶館に勤めていた人、芸能好きの老人からの聞き取り)
趙巷郷F家窟はBと同じぐらいの町だった。川に橋がかかり河東と河西に茶館が一つづつあった。家から1.5kmの所にあった。また500mぐらいの所にS家台という小鎮があり、ここにも茶館が3つあった。店が何軒かあった(肉屋、精米所、雑貨店)。X鎮の茶館にいくこともたまにはあった。X鎮はF家台より小さかった。
B鎮での廟会
B鎮に買物に行くこともあった。B鎮には4月の廟会以外には遊びに行くことはなかった。旧暦の4月の6〜10日に廟会が開かれていた。8日がメインで、一番賑やかだった。廟に行って焼香をする。出店もあった。服、帽子、靴、農機具、斧、かなづちを売っていた。農作業に関するものはみなあった。近所に住んでいる商売人や職人が集まってきた。廟会には雑技(綱渡り)、猿回し、皮影戯、武術団(山東人が多かった)、「灘簧」(滬劇の前身)などが、廟のあったところで行われていた。芸人は地元の人ではなかった。
朱記茶館
(以下、B村供銷社経理からの聞き取り)
1958年、公私合管後、隣の茶館と交換された。元々茶館は大きくて、客が減ったので、雑貨店と交換した。
B鎮には茶館が6つあった。朱記茶館が一番大きかった。そこにだけ、書場があった。朱記以外は解放後につぶしてしまった。客が減って閉めてしまった。
解放前の客には、昔はいろんな年齢の人がいた。上海への中継点だったので、「米販子」が来ることも多い。若い人もきた。
朝3時頃に開き、6時まで開いている。夜は6時から8時か9時まで開いている。夜は「説書人」(講談師)、「灘簧」をする人がいた。演芸は昼過ぎからもある。営業は1日中で、お茶は当時の金で5〜8銭だった。これはとても安かった。
農村の老人の客が朝3時から来て、6〜7時までいてる。それから朝ご飯を食べに帰る。
説書、灘簧は殆ど毎日ある。お茶5銭、聞くお金は20銭追加する。有名な人(芸人)でも値段は20銭。毎日聞いても問題のない金額だった。どうせ話は一日で終わらない。説書が始まると、しばらく何日かは(10〜15日。芸人のレベルによって異なる)説書。終わると別の灘簧が始まる。
自己紹介の後、題目について語る。1回に2時間。途中5分くらい休み。夜は違う題目で2時間。昼夜、曲種は同じ。同じ芸人。蟠龍には読書、灘簧の芸人はおらず、上海などから呼ぶ。
解放前、麻雀、揺攤(ヤーテー)やさいころ等、色々な種類の賭博をしていた。おもに茶館でやられていた。
茶館で酒を飲んではいけない。 説書などをする時には、有名は芸人の時には百人以上の客が集まる。その時は外にまで客がいた。説書の人気題目は武侠もの。『水滸』、『三国』。
灘簧では、婚姻と関係のあるものが人気があった。これと滬劇の内容はよく似ている。特に滬劇が人気があった。滬劇では『陸雅臣売娘子』が人気があった。
解放前、女性が茶館に来ることは禁止されてはいなかった。親が娘に茶館に行くなということが多かった。来る女の人はだいたい年齢が高い。
ここは鎮だから、芸は一年中やっている。農繁期は少し客が減る。老人には関係ない。
宣伝はする。どんな芸人の時でもする。芸人によって宣伝の量は変わるかも知れない。誰がどんな題目でいつからいつまでどこでやるか紙に書いて貼る。近くのここより小さい町に貼りにいく。客は2kmぐらいの範囲から来る。
年齢による好みの違いはない。
周立春をテーマにしたものはなかった。
内容に緊張があるものが好き。
灘簧の中には「分家」をテーマにしたようなものはなかった。灘簧なども10日以上した。滬劇も同じ。
解放前、農民から芸人は軽蔑されていた。皆、専業だった。目の悪い芸人もいた。
解放前、評弾を上海から呼ぶことが多かった。女が多かった。一人は三線を弾いている。灘簧や説書には女性は少ない。説唱は昔はなかった。
解放前、灘簧は役者が少ないので、舞台装置などはなかった。
ほとんどの人が好きだった。
娯楽はこれくらいだった。
「弾詞」と評弾は同じ。「弾詞」にも語りと歌がある。「評話」は評弾と区別していた。「評話」なら、武侠の歴史もの、評弾と灘簧は同じ内容を演じる。評弾だと蘇州の話、灘簧だと上海の話をする。芸人も別々。表現方法も異なる。聞いて分かりやすいので、評弾より灘簧の方が好まれた。回数も灘簧の方が多い。内容・テーマには大きな違いはない。
上海語と言うものは解放前は確立していなかった。灘簧の場合も演じるときはこの地方の言葉を使う。説書も蘇州の言葉で演じた。
灘簧は2人10人(普通は2、3人)。
解放前、説書、灘簧、評弾の順で多かった。茶館では説書が一番多い。
舞台装置はない。時間が来れば、茶館に入ってきて、客が少なくても始める。「醒木」をたたいて話を始める。いいところが来ると拍手をする。いい芸人だと静かに聞いている。
同じ題材はだいたい3年以内はやらない。
金は茶代と一緒に茶館に払う。
X鎮の茶館には書場があり、毎日何か演じられていた。そのほかの茶館でやられることはなかった。他の鎮でもない。「出会」(祭り)や結婚の時に芸人を呼ぶときもある。結婚の時に必ず打唱を呼ぶわけではない。
廟会では灘簧は演じられたが、説書などはやられなかった。灘簧は5〜6平方メートルの簡単な舞台を作る。
「売唱」も少なかった。人通りの多いところでやった。但し十字路なのではしない。
今の書場で昔の灘簧をやっている人も少しいる。めったにない。
(つづく)