香港新界の複数宗族共住村落における宗族間結合

−宗族が語る村の歴史とNGO村落開発運動がみた村−

(報告要旨)

首藤 明和(神戸大学大学院文化学研究科博士課程)

0 本報告の課題

1977年からの3年間、調査地南圍村ではNGOによる村落開発運動が行われ、客家文化復興事業の一環として、村史「南圍客家歴史簡述」、村民文集「南圍の聲」などが編纂された。それらの資料とNGOのレポートを参照し、また報告者自身の実地調査も踏まえたうえで、宗族間結合の弛緩が進んだ1970年代後半の、香港新界の複数宗族共住村落の事例報告を行う。

1 調査地の概要

(1)南圍 新界東南部西貢区、九龍市街から北東に4キロ。沿海村、背後にまで山地。現在、村に耕作地は見られない。農業、漁業、工業など村内生業基盤は存在せず、九龍市街や西貢マーケットタウンに毎朝通勤。南圍は「客家」である成姓、邱姓の二つの宗族(父系親族集団)によって1752年に建設。南圍成姓族人は約300人、そのうち100人以上が英国に出稼ぎ。南圍邱姓族人は約800人、そのうち約150人が英国、ベルギー、独、和蘭、米国に出稼ぎ、500人近くが香港や九龍で生活。父系親族集団を形成していない他姓の者も居住。「外来人士」(西洋人)が約150人、村内の別荘に。

2 南圍の建設から全村性活動の衰退へ

(1)南圍成姓と邱姓の移住来歴  清朝は明の遺臣「海冦」鄭成功を海上封鎖するため、「遷界令」(1661)を出して沿岸住民を内陸部に五〇里強制移住させた。1684年の「遷界令」解除後、広東、福建、広西省の「客籍」農民、いわゆる「客家」の移住・開墾奨励策を行った。これに呼応して、南圍成姓(籍貫:広東省興寧)は、十六世祖檳元が新界大埔に遷来、その後、新界地区内で小規模移住を繰り返し、二一世祖朝常(孟公屋)の子孫は十房に別れ、九つの房が南圍に移住。一方、南圍邱姓(籍貫:福建省 田)は十七世祖祖盛が新界大埔に来遷、二十世祖尚連の分節が南圍に移住。

(2)南圍の建設  成姓と邱姓は共同で南圍に入植(1752)。海賊や山賊の横行、共同で南圍を防衛。1800年代に、協働で「圍」(海堤)を建設、村内に共有地産を形成。1960年代初頭までに圍によって造成された耕地面積は9.7haに達し、製塩業や稲作、養家鴨や養魚などの生業を協働で行った。 

(3)南圍の社会組織  南圍の共有地産の下、成姓と邱姓は連携、その制度的な協働は「和平社」という全村性の村落組織に。社は共有地産の収益から基金を形成し、村廟「天后古廟」の運営、成姓と邱姓それぞれの祖霊祭祀に必要な物資の購入、南圍の福利厚生など、村落生活全般に関してその基金を運用。しかし1960年代以降、南圍生業基盤の崩壊や九龍都市部での就業、海外への出稼ぎ・移住の拡大にともない宗族間の連携は弛緩、社の全村性の活動も衰退、解散。残った基金はそれぞれの宗族の代表が保存、運営。

(4)南圍の子弟教育  戦前から1960年代、両宗族は協力して私塾「南昌学校」を運営。しかし、香港経済の急激な発展とともに、教育は、より良い就業機会を獲得するための技術取得が主目的となり、村からの脱出手段に。村民は子弟教育の後進性を認識。義務教育制度の執行(1985)によって宗族間連携による子弟教育の歴史は終焉。

(5)NGO村落開発運動  1977年から3年間、「住民参加と主導性」「自立」という理念の下、南圍生業基盤の再整備事業を計画、実行。結果は失敗。NGOの報告書は「南圍村民のリーダーシップの欠如」がその原因とする。例えば、均分相続に基づく土地所有形態の細分化と複雑化の進行、土地の共同利用を唱道するリーダーの不在(宗族規範の衰退)が工場誘致の妨げに。運動の残したものは、スペイン風別荘と客家文化復興事業としての村史編纂など。

3 現在の南圍:現在の成姓と邱姓の連携形態

南圍は前世紀中頃から移民母村。成姓と邱姓は、海外出稼ぎ・移住者を前世紀中頃から送出し続けており、海外送金を基に南圍の共有地産の形成や子弟教育、各の宗族の再統合を行う。現在の両宗族の連携は、南圍と海外移民との関係に。上記した新界における親族集団の地域間移動は、地域分散のリニージ形態を生み出したが、海外居留地との接合的コミュニティのなかで、父系出自を遡った紐帯が再び機能。

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