首藤明和著『中国の人治社会−もうひとつの文明として』 (日本経済評論社、2003年)
日本や欧米社会では,生産、再生産の領域を問わず,近代的な計算合理性がもたらす人間疎外の問題が,日常生活にすっかりと馴染んでしまった。 今日の日本などは,周囲(家族や親戚も含めて)にひとりの知り合いがいなくとも,とりあえずは生活していくことができるような社会だといえる。 一方,中国の現代化では,后台人や世話役などの存在が,民衆にとってはいつまでたっても切実な問題であり続ける。 計算合理的な予測が成り立ちにくい民衆生活においては,将来において直面するかもしれないさまざまなリスクに備えて,できるだけ多くの人間関係を築いておく必要がある。 結局,リスクを無数の人物に分散することでリスクの縮減に努める〈包〉的構造とは,個人の経験世界における喜怒哀楽を,できるだけ多くの人々と分かち合おうとする, 中国民衆の生き方そのものに他ならない。生き方としての〈包〉なのである。 「近代化」のなかの社会では,人々の生き方とは,サブシステム的な意味合いのなかで従属的な地位に甘んじてきた。 しかし「現代化」のなかの社会では,あくまでも〈包〉的構造を支える人間個々人の資質が,第一義的な意味を持ち続けている。 私たちが近代社会の抱える疎外の問題を自覚すればするほど,生き方としての〈包〉は,人間の自立や尊厳を考える上で, たいへんユニークな素材となって眼前に立ち現れてくるのである(拙著「終章」より)。